賢い光の子(25.1.26)
旧約聖書 創世記12:11-20
新約聖書 ルカ福音書16:1-9
讃美歌 61 276 288
与えられましたルカ福音書16:1-9は主イエスが罪人と言われる人と一緒においでなるのを非難したファリサイ派や律法学者に「見失った羊」「なくした銀貨」「放蕩息子」のたとえ話によって、天の国とは一人の人の悔い改めを大きな喜びで満たされると教えられた後、残った弟子たちに16:1「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。」と語られた一つのたとえ話です。
ある「金持ち」が出てきますがルカ福音書で「金持ち」はルカ12:16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。」 12:17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、 12:18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、』
ルカ16:19 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。」などに、神ではなくて、物質的な豊さだけを求める生き人の譬えによく出てくる人物です。
主イエスはここで神を信じる信仰を妨げようとしているお金や物質の持つ危険性を教えようとされているのですが、と譬え話の最初に一人の金持ちに「告げ口をする」者が出てきます。
告げ口というのは、誹謗中傷する、敵対する、同じ言葉の名詞では、敵対者とか悪魔を意味する言葉ですから、この人は、物質的な豊かさを生きる根拠にしている金持ちと同じように神を信じない人でした。
この人にとっても、お金は生きる上で一番大切なものですから、そのお金を浪費する者がいるのをこのままにしてはおけないと思ったのでしょう、さっそく金持ちに告げ口をしました。他人のものであっても、大切なお金が不当に扱われるのを黙ってみているわけにはいかなかったのです。
16:2 そこで、告げ口を聞いた主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』と管理人に正しました。
「会計の報告を出しなさい」というのはお前のしていることに疑いがあるから監査をするということです。
この時主人は、告げ口をする人を信じて自分の雇人である管理人を疑ったわけですが、ここにも、自分の雇人より、告げ口をする人を信じるこの金持ちの価値観が表れていると言っていいでしょう。
金持ちにとっては、告げ口だろうと何だろうと、生きるよりどころである大切な自分の金が勝手に浪費されることを知らされれば、見過ごすにできないのです。
そこで、金持ちは、管理人の仕事の監査をしたわけですが、しかし、管理人は一言も弁明しようとはしません。
自分の生活のために一時流用にしたのか、主人の財産を増やしてあげようと思って勝手に投機でもして穴をあけたのか分かりませんが、主人の財産に損害を与えていることは確かだからです。
しかも、管理人は主人のお金に対する執着心をよく知っていました。
調べられて不正が発覚すれば見逃してもらえるはずはありません。
16:3『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。』と、これか先のことを心配しました。
もちろん、自分のしたことを考えれば、主人から管理人の仕事取り上げられるのは当然のことですが、今の仕事をやめるわけにはいかなかったのです。
畑仕事や土木作業など額に汗して生活の糧を得るということはしたくないのです。そんな体力もありませんし、しても長続きする根気もありません。
だからと言って、物乞いをするのもプライドが許しません。
こういう肉体労働を忌避する怠け者の上に気位だけは高い管理人は、管理人の仕事をしてきたからこそ、いまの生活を送ってこられたことをよく知っていました。
そういう安定した生活を失いたくない、そう思った管理人は16:4 そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』と考えました。
家に迎えてくれる人というのは、寝食を提供してくれる人ということです。
そういう人がいれば仮に管理人という職を失っても、助けてもらえると考えたのです。
しかし、怠け者の上に主人の財産を浪費して生きてきた自分に、自力でそういう人が作れないことは分かっていました。
そこで、金持ちの主人が今までしてきたことを見ていた管理人は、自分もこの危機をお金によって乗り切ることを考えつきました。
と言っても管理人は単なる雇人です。金持ちの主人のようにお金に余裕があるはずもありません。
そこで管理人が思いついたことは主人のお金を利用するということでした。16:5管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と尋ねました。
すると最初の人が16:6 『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』 16:7 また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』と言ったのです。
1バトスは約23リットルですから、油百バトスを五十バトスと書き直したら、借用は半分になり千百五十リットルもの油が免除されたことになります。
小麦百コロスは二万三千リットルにもなりますから、これを80コロス、一万八千四百リットルと書き改めたら、四千六百リットルの小麦を返済しなくてよいことになるわけです。
このように管理人は、主人に借財のある二人に、莫大な量の油と小麦の借用証書を気前よく書き換えさせたのです。
こうして恩を売っておけばいざというときのお返しをしてくれるだろうと考えたのです。
しかし、管理人がここでしていることは、告げ口をする人が指摘した「主人の財産を無駄遣いしている」ことの繰り返し、いや、ここではもっとひどい詐欺行為をしているということでした。
管理人が気前よく免除している借金は、自分のものではなくて主人のものだからです。
ですから、この譬え話を聞いている弟子達は、そして私達も含めてこの福音書を読んでいる多くの人は、自分の非を認めて主人に許しを請うことも反省もしない、この怠け者で頑なな管理人に怒りを覚えることがあっても同情することは考えられないでしょう。
そして告げ口をした人をほめこそすれ非難することはないはずです。
ところが、ルカ16:8 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。」というのです。
ここで8節と9節で主人という言葉が繰り返し出てきますが、この二人の関係について二つの解釈があります。
一つは、8節の主人は管理を雇っていた人、つまり金持ちの主人で、9節に出てくる主人は主イエス・キリストであるというものと、この二人とも主イエスご自身であるという解釈です。
もし、8節の主人を管理人の主人であるとすると、告げ口した人の言う通り、自分の財産を無駄遣いしている、無駄遣いすることによって自分の命より大切なお金を減らしている管理人をほめたということになります。
そうであれば、不正を認めるどころか、今までの管理人としての立場を利用して、自分の債権を勝手に処分した管理人をほめるとは思えません。
ですから、8節に出てくる主人は、管理人の主人であるお金持ちではなくてルカ 16:9 そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」と言われたこの譬えの語り手である主イエスであるということできるでしょう。
ですから、この管理人をほめられたのは譬えを語っておられる主イエスご自身であると言えるのですが、それにしてもどうして主イエスはこの不正なやり方を繰り返す管理人をほめられたのでしょうか。
それは、この管理人の抜け目のないやり方についてでした。
抜け目のないという言葉は8節の「賢くふるまっている」と同じ言葉で、賢明、識別力があるというような言葉です。
そこで、主イエスは16:8「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。」といわれたのですが、「自分の仲間に対して」というのは今の自分と同じ時代、時に住むものという表現になっています。
ですから、この管理人は自分の窮状から抜け出すために、今目の前にいる人に対して真実に立ち向かったのです。
今生きている仲間を仲間として真剣に向き合ったのです。
そしてその人たちの借金と言いう窮状を救おうとしたのです。
救うことによって、自分を迎え入れてくれる友を得ようとしたのです。
このことを主イエスは、16:8「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。」と言われたのです。
そういう言われることによって、弟子たちにあなた方も、今の生きている時代に真剣に向き合いなさい、今の時代の中で一生懸命に生きなさいと言われたのです。
管理人が金持ちの主人のお金を使ったのは、お金によって自分の生きる根拠を確かにしようということでなくて、いつでも自分を迎え入れ助けてくれる友を得るためだったからです。
いつも自分を迎えてくれるということはいつでも助けてくれる、窮状を救ってくれるということです。いつでも救われることを、主イエスは「永遠の命を得る」といわれていますが、「永遠の命を得る」とは救われるということです。
金持ちにとってお金がすべてであるように、そして管理人にとっては今まで金持ちの主人の庇護のもとに生きてきたのと同じように、主の弟子にとって、「永遠の命」は目指すべき最高のものであり、生きる根拠になるものなのです。
ですから主イエスは、光の子とされている弟子たちは、永遠の命を与えて下さるもの、つまり、主イエス・キリストを友とするためになりふり構わない必死さが求められると言われるのです。
弟子たちから見れば、職権を乱用し、使い込みをしてまで生き残ろうとする解雇寸前の管理人は、不道徳で、怒りや嫌悪感の対象以外の何ものでもないでしょう。
自分たちは、毎日地道に働き、正しく生きようと努力している。
それなのに、怠け者で働かず楽をして暮らそうとするこの管理人が、不正をしても罰も免れるとしたらどうでしょう。これは不公平以外の何物でもないと思うでしょう。
しかし、主イエスは、管理人の行動そのものが正しい、あるいは賢い、と言われたのではないのです。永遠の命、言い換えれば神の国とは、この地上における公正不公正とは違うのです。
例えば、マタイ20:1016「ぶどう園の労働者」のたとえでも、行われていることは不公正以外のないものでもないものでした。
ぶどう園で夜明けから働いた労働者も朝九時から働いた労働者も、その後、十二時、三時、五時から働いた労働者も、みな同じーデナリオンを受け取る、このようなやり方は夜明け前から働いた労働者の身になって聞けば、憤るのは当然のことなのです。
しかし、主のブドウ園、永遠の命、神の国は違うのです。
神の国は、今、この時に、生き延びるために一時間でもいいから働きたいと必死になって来る人を締め出されるようなところではないのです。
神の国とは、生きるためにあらゆる手段を講じる、そうせざる得ない人間を断罪されない、それどころから賢いと言って受け入れて下さるところなのです。
自分の地位が失われる危機に直面して、管理人は将来に備えるために今できること、不正を犯すという決定的な行動に出ました。
福音に耳を傾ける者、来るべき神の国に自分のすべてをかける人々にも、今の時、今の時代に、こうした決定的行為が要求されることがあるのです。
主イエスを求める人は、主イエスから引き離そうとする金持ちの誘惑、攻撃に絶えずさらされているからです。
そのとき、なりふりかまわず求めていかなくてはならないことは主イエスを友とすることなのです。
弟子たちもずるがしこく立ち回って生き残ればよいと勧められたのでもないのです。
主イエスが弟子たちに管理人のような賢さ、不正な富で友を得るように言われているのは、求めるべきものが「永遠の命」だからなのです。
主イエスは、主イエスの友となるために必死な私達一人一人に温かいまなざしを注いでくださるのです。
そしてそのまなざしで、私達の行いを、この世の正、不正で裁くのではなく、賢いと言って受け入れてくださるのです。
私達もまた危機に陥ったとき、抜け目なく対処する管理人のように、友なる主イエスにつながっていくために、今、このとき、あらゆる手段をこうじることのできる賢さを身に着けたいと思います。
祈ります。
招きの感謝。
社会的な関係、富を媒介にした関係を第一にするのではなく、自分の状況の緊急性に抜け目なく対処する管理人のように、自分たちの滅亡を回避のために、あらゆる手段をこうじることのできる賢さを身に着けるものとしてください。主の名によって祈ります。アーメン。